しばしばマイノリティと呼ばれる、差別される側の人々が、差別の事実をマジョリティに提示すると、マジョリティ側はたいてい、
1.苦しいのはあなたたちだけでない。(差別は他にもみられる)
2.うざい。
3.マイノリティが特別扱い(特権)を要求している。傲慢だ。
のような反応を見せる。
差別のない社会なんてない。
だから、差別が起こった事実を認識する(させる)こと自体が軋轢の原因になるのは、社会のしくみ自体に問題があると思ってよいと思う。
社会のしくみをよりよいものにすることは、マイノリティ以外のその社会に生きる人全員によいことではないか。
では、その社会のしくみをよりよくする働きはだれがすべきか。
差別される側の人間にその働きの重責を負わせるのは、間違いだと思う。
差別を解消する責任は、常にマジョリティ側にある。
「保毛田保毛男」でざわついている。このキャラクターがゲイの若者に及ぼした影響の指摘と、テレビ局の責任を、「ポリコレ・PC」の行き過ぎと片付けようとする人々(当事者も含め)がかなりの数いる。
「キャラクターを笑う行為は、同性愛者を笑う行為と同じではない」という。「過剰反応だ」と軽く流そうとする。
立ち止まって、このキャラクター、それが登場した番組への異議が唱えられた背景を、冷静に受け止め、社会のしくみの精査に発展させようという流れがまだまだ弱いような気がする。
同性愛者を笑う行為を許す社会のしくみを改善するのは、同性愛者の仕事ではない。私たちマジョリティの異性愛者の仕事だ。